デスノート(邦画)

先月テレビで放映された映画版デスノート前後編を消化した。いやー良かった。
元々原作における基本のギミックと対立構造がよくできているので、視聴者がある程度興味を持ったら最後、フックに引っ掛けられラストシーンまで引きずり回されてしまう、そんな引力がある。ただ突っ込みどころが多いのも原作と同様なので、警察側の詰めの甘さにいちいちいらついたりせず、ドラマを大らかに楽しめる才能が必要ではある。
原作で批判対象となったジェバンニマジックなどはあっさりスマートに別の手段で解決しているし、終盤の直接対決におけるL側の最終手段は(相打ちよりもっとマシな手段があるだろ的な突っ込みは飲み込んで)、ドラマをこれ以上なくきれいに閉じてみせて見事というほかない。火口と魅上の役回りを高田清美に集約させたのは合理的だし、逆に言うと尺を詰めるための原作省略もこれが限界ぎりぎりだろうと感じた。
役者が演じることによる肉付きもこの作品では良い方に作用していた。余裕を演じてるはずなのに常に追い詰められてる感じの月(藤原竜也)は、虚勢を張るいじめられっ子という趣でつい応援してしまう。L(松山ケンイチ)は漫画的キャラクターを立派に演じており、表情の変化が浮き彫りになってしまうあのメイクで、エキセントリックな演技をよくこなしていた。
そしてCGではあるがリューク(声:中村獅童)の存在感は格別で、こんな面白キャラが跋扈する世界観で野暮な突っ込みは無用だという、感覚のファンタジー化とでもいうか、そういったものに大きく貢献していた。原作のビジュアル設定の中でもリュークのデザインのインパクトが最大かつ最良の部分だろう。編集部もよくぞあれを通したものだ。少年漫画ならもっと格好良さを要求して、薄気味悪さを抑え気味にしてもおかしくないのに。
先月監督が決まったハリウッド版もいつか見てしまうだろう。漫画もアニメも邦画も見た上で言えるのは、筋が全部分かっていても、また再び最初から体験したくなる魅力がデスノートにはあるということだ。